北海道で開拓を行うことは、想像を絶する苦難の連続でした。明治の初め、厳しい自然を乗り越えて原生林を拓き北海道の基礎を築いた人びとがいました。
幕末の開拓団
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勇払原野開拓記念碑の千人同心の顕彰碑
苫小牧市民会館前に立つ八王子千人同心顕彰碑。白糠町には八王子千人同心を率いた原半左衛門の「縁の地」碑があります(写真提供:苫小牧市)
幕府は、蝦夷地を直接治めることでロシアに対する備えを強化しましたが、このことを聞いた八王子千人同心の組頭原半左衛門は、弟新介とともに同心子弟約100人を連れて蝦夷地に渡り、半左衛門が白糠(現・白糠町)へ、新介が勇払(現・苫小牧市)に入りました。現在、苫小牧市と八王子市が姉妹都市提携を結んでいるのは、これが縁になっているからです。
八王子千人同心は、もともと甲州武田氏の遺臣で、江戸時代に八王子地域に甲州から移され、甲州街道の警備に当たっていました。兵農分離が原則だった江戸時代にあって、八王子千人同心は例外的に帯刀を許されながら農耕を行っていました。そのことがロシアへの備えと開拓が期待された蝦夷地にふさわしいと考えられたのでしょう。しかし、蝦夷地の自然は過酷で、病にかかり帰郷する者が続出し、八王子千人同心による開拓は数年で失敗に終わりました。
このように幕府の直轄時代に、小規模な移民や開拓の取り組みがありましたが、充分な成果を挙げることはできませんでした。それでも幕府が行った七重薬草園の開設や鉱山調査、西洋技術導入のための調査など開拓政策は、明治時代から本格化する北海道開拓に引き継がれ、その先駆けとなっていったのです。
関連リンク
西洋の知恵を導入した開拓使
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開拓使顧問ケプロンその他のお雇いアメリカ人たち
写真左から2人目がケプロン(『明治大正期の北海道』より)
開拓次官に就任した黒田清隆は、日本をロシアから守るためには北海道開拓が急務として、北海道と樺太にまたがる大規模な開発構想を打ち出します。
黒田清隆は後に第2代内閣総理大臣になる薩摩閥の実力者です。黒田の建議は認められ、1872(明治5)年から10年にわたり総額1000万両の国費をつぎ込む「開拓使10年計画」が決定しました。黒田は、北海道の厳しい自然を克服できずに失敗した江戸時代の経験から、自然環境が類似し、開拓について豊富な経験を持つアメリカに着目し、農務長官であったケプロンに開拓使の顧問を依頼しました。また開拓を担う人材の育成に、アメリカ・マサチューセッツ農科大学学長のクラークを教頭に迎え、1875(明治8)年、札幌農学校を設置します。この農学校の一期生、二期生からは、佐藤昌介、新渡戸稲造、内村鑑三など、当時の日本を牽引する人材が巣立っていきました。
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国指定重要文化財・札幌農学校第2農場
1876(明治9)年、西洋式酪農のモデルを示すためクラーク博士の構想によってつくられました。この建築様式が、北海道各地の農家に取り入れられ北海道らしい農村景観をつくりました(写真提供:北海道大学総合博物館)
北海道開拓移民のはじまり―士族移民
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国指定重要文化財・旧三戸部家住宅
伊達開拓団の開拓農家。明治10年代後半に仙台地方の様式を取り入れて建てられました。道内に現存する開拓農家としては最古級のもので、1969年に開拓記念館庭園内に移築しました(写真提供:伊達市)
1873(明治6)年に創設され、北海道開拓に大きな役割を果たした屯田兵も、はじめは士族に限られていました。屯田兵は農耕地と住宅、農具が与えられ開墾に従事するとともに、軍人として厳しい規律に従い軍事教練を受けました。実際に軍隊として、1877(明治10)年の西南戦争には琴似屯田の屯田兵が九州に遠征しています。士族中心の屯田兵は1890(明治23)年の太田屯田(現・厚岸町)まで続きました。 これら士族の移民は、開拓を通して国に貢献したい、家名再興を果たしたいという意志が強く、北海道の厳しい環境にも耐えました。彼らの苦闘は、現在の北海道のいくつもの町の基盤となっていきました。
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屯田兵舎群
1874(明治7)年、札幌琴似村に建築された最初の屯田兵舎(『明治大正期の北海道』より)
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屯田兵村の家族
明治20年代末の厚岸郡太田屯田兵村の一家族(『明治大正期の北海道』より)