明治から大正にかけて、北海道には各地からの移住者が増加します。このとき故郷から引き継いできた獅子舞などが厳しい生活の中で励みになり、今も各地に伝えられています。また、産業面では寒冷地に適応した農業の近代化が進み、内陸部では炭鉱開発が盛んになりました。
急増する北海道移民
北海道への移住者は、明治20年代から大正時代にかけて急増します。その背景には、開拓政策の転換や日本各地における農村の変化がありました。1882(明治15)年、開拓使10年計画の終了とともに開拓使は役目を終えたとして廃止され、北海道は札幌県、函館県、根室県の三県時代から、岩村通俊を初代長官とする北海道庁の時代へと移ります。
開拓使時代は、本州以南の住民を北辺の地に移住させるためには徹底した保護が必要として、開拓資金のほか家屋、農具、家具にいたるまで移住者に給付しました。しかし給付期間が過ぎると郷里に引き上げてしまう人も多く、予算を費やした割には成果が上がりませんでした。
そこで北海道庁は、開拓使時代の個人・家族に直接給付をする政策を改め、官庁は道路や港湾の建設に力を入れ、資本家や企業を保護するように政策を転換しました。その結果、東北、北陸、四国をはじめ、全国から会社組織や団体での移住がすすみ、単独移民もふくめ大量の移民が北海道にやってきました。北海道庁は、移民向けに「北海道移住手引草」という案内を作り、移住者には北海道への交通費が割引されました。 団体移住では、災害に見舞われた奈良県十津川郷の人びとが入植した新十津川をはじめ、山口県の山口団体が恵庭へ、徳島県阿波団体が仁木へ、富山県砺波地方から栗沢町砺波や芦別へ、広島県から北広島へなど、現在の北海道の市町村誕生の基盤をつくっていきました。
また、大農場への小作として団体で移住したものも人びともいました。北海道には、移住者たちの故郷の母村の文化がいまも残る地域もあり、さまざまな文化が北海道の風土のなかで混在することで、北海道らしさも生まれていきました。
移民は開拓地では森を拓き、巨大な根や岩を掘り起こし、その労苦はたいへんなものでした。夫婦・家族連れで移住する者も多く、故郷から石臼の上下を夫婦それぞれが背負ってきた開拓の思い出が各地に残っています。
単独での移住や無許可の移住者も少なくなく、かれらは同郷のつてを使って先輩移住者のもとに「わらじ脱ぎ」をし、そこから開拓地をめざしました。
移住者よ大志を抱け
北海道で理想を実現しようと大志を抱いて渡ってきた人たちの活躍も、北海道の移住史を語る時に忘れられないエピソードです。1897(明治30)年、野付牛(現北見市)に「北光社」移民団112戸が高知より団体移住し、同時期に入植した野付牛屯田とともに北見を開きます。北光社は、明治維新の英雄坂本龍馬の甥、坂本直寛がキリスト教に基づく理想都建設をめざして設立した団体です。坂本直寛は龍馬の兄、権平の子供で、自由民権運動に投じる中、1885(明治18)年にキリスト教徒になりました。坂本家の家督を継いだ直寛には、北海道開拓を志していた叔父龍馬の意志を継ぐ想いもあったのでしょう。
同じ年、およそ50㎞北方の遠軽でも、仙台の東北学院の創設者、押川方義らが設立した「北海道同士教育会」による入植が行われました。北海道同士教育会はキリスト教大学を中心とする学園都市をこの地に造ろうとしていました。北光社や北海道教育同志会より以前、北見の南、十勝地方ではキリスト教徒であった依田勉三の「晩成社」が1881(明治14)年より開拓を行っていました。
また二宮尊徳の孫である二宮尊親が「尊徳の教えに基づき、善行を奨励し、倹約を勧め、家、村、国家の衰貧を起こす」として開拓結社「興復社」を1897(明治30)年に創立し、現在の豊頃町に157戸1940人の入植を成し遂げた例もあります。
このように困難を乗り越え開拓を成功させ移民団は、それぞれ強い目的意識と結束力に支えられていました。移民や移民のリーダーには、自由民権運動のリーダーや活動家も少なくありませんでした。高い志をもった人びとが、北海道の歴史を彩ったのです。
内部開拓を促進した炭鉱開発
北海道庁時代の移民増加の背景には、積雪寒冷地に対応した「北海道農法」が確立してきたことが挙げられます。北国の短い耕作期間中に効率よく作業を進めるため、プラウやハローなどの洋式農耕具を牛馬に挽かせて大面積を耕す農法が普及していきます。また米づくりへの執念は、寒冷地向け品種の開発や、「タコ足」という農具を用いた北海道独特の直播き農法の普及もあり、水田も広がっていきました。内陸部では炭鉱開発が進みます。北海道の石炭開発は、開拓使が招いたアメリカ人技術者ベンジャミン・ライマンの調査によって本格化し、1879(明治12)年、幌内炭鉱が開かれると、石炭の積み出しのため小樽港まで幌内鉄道が敷設されました。道庁時代には、北海道炭礦鉄道(後の「北炭」)の手で空知・夕張炭田で次々と炭鉱が開発されました。北炭の独占体制がくずれると、三井、三菱などの大財閥が競って炭鉱開発に乗り出し、1919(大正8)年には全国の出炭量の15%を占めるまで発展し、炭鉱労働者も約3万5千人に達します。石炭は鉄道や船舶、鉄鋼などの北海道の産業を支えただけでなく、寒冷地を克服する「石炭ストーブ」の普及や「石炭手当」という北海道独特の給与の習慣など、生活文化にも大きな影響を与えました。
炭鉱は多くの労働者を必要とします。開拓が成功するまで先行投資の必要な農業開拓と異なり、壮健な身体さえあればすぐにも賃金が得られた炭鉱は全国から多くの移住者を集めました。かれらによって夕張、三笠、美唄、赤平などの炭鉱町が生まれていったのです。炭鉱では、労働者のきずなとしての「友子制度」や山神祭り、「一山一家」という強いコミュニティなど独特の文化がかたちづくられていきました。
そして内陸部の開発は、それまで漁期に本州から渡ってきた漁業者の定住と商工業者の移住をもたらしました。農業に失敗し、商工業者や労働者になる人びともいました。このような多様な人びとの移住は、北海道の文化をつくるひとつの要素になっていきました。
北海道の炭鉱産業の歴史を伝える施設
そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター
そらちをはじめ北海道内の炭鉱遺産に関する資料、書籍、写真集などを取りそろえています。また、センター窓口は空知地域を中心とした炭鉱遺産や地域の情報を提供し、コンシェルジェとしての役割も果たしています。「そらち石炭かりんとう」やガイドブックなどオリジナルグッズの販売もあります。
- 住所岩見沢市1条西4丁目3
- 電話0126-24-9901
- リンクそらち炭鉱の記憶マネジメントセンター
美唄市郷土史料館
6つのテーマに分かれた展示があり、その中に「炭鉱の開発と移りかわり」として美唄の炭鉱の歴史を展示しています。
- 住所美唄市西2条南1丁目2-1
- 電話0126-62-1110
- リンク美唄市郷土史料館
星の降る里百年記念館
道の駅スタープラザ芦別の敷地内にあり、炭鉱を含めた芦別市の百年のあゆみを体感できる施設です。映像システム「マジックビジョン小劇場」により約40年前の炭鉱長屋の暮らしを再現するほか、炭鉱関係の資料を多数展示しています。
- 住所芦別市北4条東1丁目1-3
- 電話0124-24-2121
- リンク星の降る里百年記念館
歌志内市郷土館ゆめつむぎ
炭鉱で実際に使われた道具類や、当時家庭で使われた懐かしの品々などを展示しています。大正期の炭住長屋の一日を再現する「炭砿シアター」や「なるほど坑内まっくら体験室」など見どころ満載です。
- 住所歌志内市本町1027-1
- 電話0125-43-2131
- リンク歌志内市郷土館ゆめつむぎ
石炭博物館
石炭と炭鉱について、見て、触れて、学べる夕張ならではの体験型博物館。実際の坑道と石炭層をキャップランプの明かりだけで見学する「まっくら探検」など珍しい展示が豊富です。
- 住所夕張市高松7-1
- 電話0123-2-3456(夕張リゾート総合予約センター)
- リンク石炭博物館
夕張鹿鳴館
1913(大正2)年に建設され、北海道炭鉱汽船株式会社(北炭)が1983(昭和58)年まで迎賓館として使用し、現在は観光施設として公開しています。宿泊施設やレストランもあります。当時の技術の粋を集めた北海道では珍しい本格的和風建築です。
- 住所夕張市鹿の谷2丁目
- 電話0123-53-2555
- リンク夕張鹿鳴館
北海道遺産「空知に残る炭鉱関連施設と生活文化」
空知は国内最大の産炭地として最盛期に100炭鉱、83万人の人口を擁し、日本の近代化を支えました。現在空知に残る炭鉱関連施設は、生産から生活まで多岐にわたり、2001年に「北海道遺産」に選定されました。また、三笠市を発祥とする「北海盆踊り」など、ヤマ(炭鉱)は今も多くの生活文化を残しています。