積雪寒冷地である北海道の冬の生活では、特に防寒着は欠かせないものでした。道南地域では江戸時代からの交易により、木綿衣もみられます。なかには、幾重にも重ねた生地に木綿糸で丹念に刺して防寒性を高めるなど、さまざまな工夫がこらされました。また、明治以降には、赤ゲットやネルなど外国製毛織物を取り入れたほか、シャツと和服を組み合わせるなど和洋折衷のスタイルも生まれました。
※アイヌ文化の衣服については、アイヌ文化「伝統の暮らしのすがた—衣・食・住」をご覧ください。
漁にも開墾にも、刺子の着物が活躍
早春のニシン漁はまだ寒さも厳しく、漁民は防寒のため、頭部には黒ネルの三角ふろしきや手ぬぐいのねじりハチマキ、上体には木綿のシャツと刺子着物のドンザ、下体には股引きをはきました。
ドンザは日本各地で見られ、ドンジャ、ツヅレ、サシコ、モジリなどとも呼ばれる、丈夫で保温性と防水性に優れた刺子の仕事着です。紺無地の木綿布を重ね、木綿糸で丹念に刺して作るため、1枚のドンザを仕上げるには20日以上もかかったといわれます。ニシン漁が始まる前の冬の間に、主婦たちが炉端などでせっせと手作りしました。
明治から各地の開墾にはげんだ移住者の多くは、「コシキリ」や「ミジカ」と呼ばれる丈の短い野良着に、タツケや股引などを組み合わせて着ていました。これらも刺子の着物が多く、寒さを防ぐとともに、クマザサや灌木の多い開墾地の作業で身を守るのにも役立ちました。足袋(たび)も「開拓足袋」と呼ばれる厚手の木綿を何枚も重ねて刺したものをはきました。
赤ゲット、角巻、二重まわし…防寒着の発達
時代とともに北海道の防寒着は進化を続けます。明治初期、政府は軍隊用にイギリスから赤い毛布を大量に輸入します。毛布はその後民間に払い下げられ、さまざまな形で利用されました。「赤いブランケット」から通称「赤ゲット」と呼ばれ、赤地に数本の黒い筋を入れたものが多く、旭川や札幌などの呉服店で売られたほか、農村漁村では行商が販売しました。
当時はそのまま身にまとうほか、外とうに仕立てたり、脚絆(きゃはん)や手袋を作ったり、端切れはツマゴ(ワラ製の深靴)をはくときに足に巻くなど、人びとの生活に浸透していきます。明治20〜30年代には東北や北海道からこれを着て上京する人が多かったため、赤ゲットが「田舎者」とか「おのぼりさん」の代名詞になったほどです。
明治30年代も半ばを過ぎると各地で商業が発展し、人びとの生活も向上していきました。呉服店や商店ではメリヤスやモスリンなどの暖かい布地が扱われるようになります。当時の冬の代表的な装いは、女性は角巻(かくまき)、男性は二重まわしでした。
角巻は約1.5m四方の厚手の毛織物を三角に折り、頭から羽織るようにして着るもので、起源ははっきりしませんが、先の赤ゲットがヒントになったといわれています。茶色、紺、えんじ色などが多く、明治から大正を経て、昭和20年代頃まで雪国の女性を暖かく包みました。
二重まわしは膝丈まである袖なしのコートに、マントがついた防寒着です。黒ラシャ製で、インパネス、トンビとも呼ばれました。和装にも洋装にも着用でき、こちらも昭和20年代まで使われました。
育てて刈って、紡いで作る、女性たちのホームスパン
大正時代に入り、第一次世界大戦でイギリスなどから羊毛の輸入が禁止されると、政府は国内での羊飼育に力を入れます。北海道はその中心地となり、各農家で羊の飼育が奨励されました。農家の女性たちは家で飼っている羊の毛を刈り、糸をつむいで家族のためにセーターなどを編みました。また、つむいだ糸を織って布にし、背広などに仕立てて副収入としました。このように、家庭で育てた羊から糸を紡いで利用することを「ホームスパン」と呼びます。
ホームスパンは畜産試験場が置かれた滝川を中心に全道に広がり、昭和30年代まで続きますが、海外から安価な羊毛が大量に輸入されるとともに、化学繊維が一般に普及し、やがて姿を消していきました。
しかし現在は趣味や地域おこしのためにホームスパンを楽しむ人が増えています。大切な人を思ってつむぐホームスパンの魅力は、時代を超えて受け継がれているのでしょう。