北海道の歴史と文化と自然

縄文文化

北と南の文化が出会う—オホーツク文化・擦文文化

続縄文文化のおわりごろ、「オホーツク文化」が、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸、千島列島にひろがりました。また、同じころ「続縄文文化」につづき、本州文化の影響をうけた北海道特有の「擦文(さつもん)文化」が成立します。このころは南北からの人や物の行き来がさかんになり、のちのアイヌ文化につながるものがあらわれてきます。

「オホーツク文化」

オホーツク式土器

オホーツク式土器
オホーツク式土器は口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った文様がみられます。この細長い粘土紐は形状が素麺に似ていることから「ソーメン文」や「貼付文」とよばれています(ところ遺跡の森所蔵)

5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきました。この人びとの文化を「オホーツク文化」とよんでいます。
このオホーツク文化は日本海沿岸にも広がり、もっとも南では道南の奥尻島にも遺跡が知られています。しかしオホーツク文化の遺跡は、オホーツク海の沿岸部にあり、内陸部からは見つかっていません。また、この文化の人たちは「海洋の民」ともよばれています。
オホーツク文化の人びとは、漁労を行い、クジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州との交易を行っていました。また、人びとは海岸近くに集落をつくりました。住居は地面を五角形あるいは六角形に掘りさげた竪穴住居に住み、なかには長さが10mをこす大型のものもあります。こうした大型住居には、15人以上もの人が共同で生活していたと考えられています。

トコロチャシ跡遺跡出土 クマの彫刻品

トコロチャシ跡遺跡出土 クマの彫刻品
クマの全身が細部まで表現され、オホーツク文化ではクマが特別な動物だったと考えられています(ところ遺跡の森所蔵)

オホーツク文化の遺跡からは、帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっています。これらは、アムール川(黒龍江)中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)、同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるものと同じものです。オホーツク文化が、サハリン(樺太)や大陸などと交易や交流をもっていたことがわかります。

オホーツク文化住居模型

オホーツク文化住居模型
オホーツク文化の竪穴住居は、平面形が五角形あるいは六角形、石組炉などが特徴です(写真提供:ところ遺跡の森)

モヨロ貝塚出土 牙製婦人像

モヨロ貝塚出土 牙製婦人像
オホーツク文化特有の牙製彫刻は北海道で十体ほど見つかっています(北方民族博物館所蔵)

「擦文文化」

擦文土器

擦文土器
擦文文化後期のもので、木のヘラでこすって表面を整えています(北海道博物館所蔵)

本州の文化の影響を受け、それまで使われていた縄文のついた土器と石器がみられなくなり、本州の土師器(はじき)に似た土器や鉄器が使われはじめます。
この文化を「擦文文化」とよび、7~12世紀ごろまでつづきました。擦文文化の人びとは、同じ時期に本州にもみられるようなカマド付きの四角い竪穴住居でくらしました。8世紀になると、人びとは河口近くに集落をつくり、サケやマス、野生植物をとり、アワやキビ、オオムギなどの栽培をしていました。

このころの北海道は、東北地方とさかんな交流があり、その強い影響を受けていました。交易によってえた鉄製品が急速にひろまり、石器は使われなくなりました。また、鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされました。
江別市や恵庭市では東北地方とよく似た末期古墳が発見され、本州産の鉄器などの副葬品が見つかっています。

札幌市K-446遺跡出土 擦文土器

札幌市K-446遺跡出土 擦文土器
札幌市北区麻生で発見された「K-446遺跡」からは多くの擦文土器や須恵器が出土しました(札幌市埋蔵文化財センター)

鉄製の鋤(すき)先

鉄製の鋤(すき)先
外側に刃、内側に溝をもつ鉄製の鋤先。本州からもたらされた鉄器の一つです(北海道博物館所蔵)

伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡(1980年の発掘調査時

伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡(1980年の発掘調査時)
擦文時代の集落としては最も規模が大きく、現在までに2549軒の住居跡がみつかっています(写真提供:標津町ポー川史跡自然公園)

復元された江別古墳群

復元された江別古墳群
江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。1931年に後藤寿一氏によって発見されました(写真提供:江別市郷土資料館)

北と南の文化が出会い、「アイヌ文化」へ

トビニタイ土器

トビニタイ土器
擦文土器とオホーツク式土器の形や文様など、両方の特徴を備えています。ちなみに、トビニタイとは羅臼町飛仁帯で出土したことから名前づけられました(北海道博物館収蔵)

オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は、北海道で8~9世紀ごろに出会いました。オホーツク文化がおわり、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器がつくられるようになります。このような土器を「トビニタイ土器」とよんでいます。
また、住居も両文化の特徴をもつようになります。遺跡は海岸だけでなく、擦文文化と同じように内陸の河川沿いにもみられるようになります。これは、この地域のオホーツク文化の人びとが、擦文文化に近い生活に移り変わっていったことを示しています。その後のアイヌ文化には、このオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受けつがれています。
一方、南から中央政権が北上し、「エミシ」とよばれた東北の有力豪族が組み込まれていきます。12世紀ころには奥州藤原氏をはじめ東北の豪族が平泉文化を花ひらかせました。
13・14世紀になると、道南には和人が住み着くようになりました。また陶器や鉄鍋などが北海道にひろがり、土器がつくられなくなります。住居は竪穴住居から平地住居にかわり、またカマドから炉にかわります。擦文文化は、アイヌ文化へと変わっていったのです。
このように北海道の文化は、北からの人びと、南からの人びとが交流や交流などにより、文化の影響を受け合っていました。

オホーツク文化・擦文文化を詳しく知ることができる博物館

オホーツク文化の人びとの「ムラ」

モヨロ貝塚館(網走市立郷土博物館分館)

モヨロ貝塚は網走川の河口に位置し、今から約1300年前のオホーツク文化の集落です。貝塚館では人びとの暮らしを「住居」「墓」「貝塚」のテーマごとに展示しています。たくみな航海技術と海獣狩猟・漁労の技術をもったオホーツク文化を詳しく知ることができます。


北方民族研究の拠点

北方民族博物館

北方地域に暮らすアイヌ、ニブフ、ヤクート、アリュート、イヌイトなど、北方諸民族の衣食住や精神文化について展示している世界的にも数少ない民族博物館です。オホーツク文化の展示では、生活の様子や信仰と儀礼、オホーツク文化の謎などについて紹介しています。

  • 住所網走市字潮見309-1(天都山・道立オホーツク公園内)
  • 電話0152-45-3888
  • リンク北方民族博物館

「遺跡のまち」を体感

ところ遺跡の森

「ところ遺跡の森」はカシワ、ナラを主体とした広大な落葉樹の森林で、森の中に縄文・続縄文・擦文時代の集落遺跡が広がる史跡公園です。この周辺には、「ところ遺跡の館」「ところ埋蔵文化財センター」「東京大学文学部常呂資料陳列館」があり、で出土資料などが展示されています。


北大のオホーツク文化研究の集大成

北海道大学総合博物館

北海道大学内にある博物館では、考古分野において5大オホーツク文化遺産コレクション(礼文島香深井1遺跡と元地遺跡、稚内市オンコロマナイ遺跡、枝幸町目梨泊遺跡、網走市モヨロ貝塚)の資料を中心に収蔵・展示しています。

※2015年4月1日~2016年7月ころまで工事のため休館しています。


江別古墳群をジオラマ展示

江別市郷土資料館

先史時代から現代までの江別の歴史をテーマ別に紹介し、江別古墳群のジオラマもあります。また、先史時代の土器約400点な並ぶコーナーでは、縄文から続縄文・擦文土器、本州から流入した土師器(はじき)などを展示しています。


札幌にも擦文時代の遺跡があった

札幌市埋蔵文化財センター

旧石器・縄文・続縄文・擦文・アイヌ文化期のそれぞれの文化を伝える札幌の遺跡と、その資料を紹介しています。


擦文最大の集落跡を保存

標津町ポー川史跡自然公園

ポー川史跡自然公園は、歴史民俗資料館と開拓の村を備えた公園入口エリア、湿原性植物が花を咲かせる「標津湿原」、約10,000年に及ぶ人類の足跡を刻む国指定史跡「伊茶仁カリカリウス遺跡」の3つのセクションからなり、知床周辺の歴史、文化、自然が融合した広大な野外博物館です。


先史時代からの北海道の歴史を総合的に学ぶなら

北海道博物館

  • 住所札幌市厚別区厚別町小野幌53-2
  • 電話011-898-0466(総合案内)/011-898-0500(行事のお申し込み専用)
  • リンク北海道博物館
ページの先頭へ